イチロー氏ら、5名の殿堂入りセレモニー

イチロー氏は英語で20分のスピーチ

July 27th, 2025

【2025年殿堂入り式典】クーパーズタウン/クラーク・スポーツ・センター、7月27日(日本時間28日)

悪天候の懸念もあった2025年の野球殿堂入り式典は、約1時間の遅延こそあったものの、天気にも恵まれ無事に開催された。多様性に富み、歴史的意義も深い今年の殿堂入りメンバーを見届けるべく、セレモニーには多くのファンが集まった。

殿堂入りを果たした5名の栄光に満ちたキャリアとそれぞれのスピーチを紹介する。

アメリカに渡ってから24年。イチロー氏はアジア出身選手として史上初めて殿堂入りを果たした。これまで、一貫して日本語でメディアに出続けていたイチロー氏は、20分に渡るスピーチを英語で行った。

時にはユーモアを交えながら、日本人初の挑戦の軌跡を振り返ったイチロー氏。全米野球記者協会(BBWAA)の投票で、野手として史上初の満票まであと1票だったことにも触れ「その記者に夕食を振る舞うという私の申し出は、すでに期限切れです」と語り、会場の笑いを誘った。

イチロー氏が与えた影響の大きさは計り知れない。特に、近年MLBにおける日本人スター選手の存在感が高まる中、その先駆者としての功績は一層際立つ。フレッド・リン以来2人目となるMVPと新人王のダブル受賞というセンセーショナルなデビューから素晴らしいプレーを見せ続け、19年間で通算3089安打、打率.311、通算盗塁509、オールスター選出10度、ゴールドグラブ賞10度、シルバースラッガー3度を達成した。

しかし、輝かしいキャリアを築いたイチロー氏の活躍は最初から期待されていたわけではない。むしろ、「史上初」の挑戦には、多くの懐疑的な目が向けられた。

「私がメジャーリーグで初めての日本人野手を目指したとき、多くの疑念がありました。それだけではありません。批判や否定的な声も多くありました。ある人には『国の恥になるな』とも言われました」

そんなイチロー氏のそばに居続けたのが、妻の弓子さんだ。

「最も私を支えてくれたのは妻の弓子です。彼女自身にも不安はあったはずです。でも、私にその気配を感じさせたことは一度もありませんでした。彼女はただ、私を励まし、支えることに全力を注いでくれました。シアトル、ニューヨーク、マイアミでの19シーズン、どの街にいても家庭の中は常に明るく前向きでいられるようにしてくれたのです。私は選手として一貫性を持とうと努めてきましたが、彼女は人生で出会った中で最も一貫性のあるチームメイトでした」

51歳となった現在もスリムで軽やかな動きは健在。殿堂プレートはマリナーズの帽子をかぶった姿で刻まれた。

「小さなことを積み重ねていけば、到達できないものはありません。見てください。私は身長5フィート11インチ(約180cm)体重170ポンド(約77kg)です。アメリカに来たとき、多くの人に『メジャーリーガーたちに比べて痩せすぎている』と言われました。初めてグラウンドに出たときは、相手選手たちの迫力に圧倒されました。でも、自分の準備に対する信念を貫けば、どんな疑念も乗り越えられると信じていました。それは、たとえ自分自身の中にある疑念であっても、です」

若い選手たちに向け「夢」と「目標」の違いや準備の重要性、「選手としての責任」を語りながらも、実況者の声を真似るエンターテイナーとしての一面を見せたスピーチは、まさにイチロー氏を象徴するかのような20分となった。

イチロー氏と同じく、CCサバシア氏もBBWAAによる初回の投票で殿堂入りを果たした。先発投手として素晴らしい成績にとどまらない、野球界への幅広い貢献も評価された。スピーチは、家族、とりわけ人生において重要な役割を果たした母マーギーと妻アンバーへの深い感謝を軸に展開された。

「カリフォルニア州バレーホからここまでは長い道のりでした。道に迷ったとき、正しい方向へと導いてくれたのは、いつも彼女たちでした」

母はケン・グリフィーJr.の大ファンであり、マリナーズがオークランド・コロシアムに来た際には彼を試合に連れて行き、さらには自らキャッチャーギアを身につけ、裏庭で投球を受けたこともあった。

「母から学んだのは、私たちがここにいて、呼吸をしていて、立っている限り、何があっても乗り越えられる、嵐の向こう側には、必ず何かがあるということです」

妻のアンバーさんとは高校3年生のときに出会い、それ以来、人生の真のパートナーとなった。

「僕は正直、面倒なやつだと思います。でも彼女は、そんな僕の扱い方を世界で一番よく知っているんです」

サバシア氏は「ブラック・エーセス(Black Aces)」(1シーズンに20勝以上を挙げたアフリカ系アメリカ・カナダ人の投手15名によるグループ)の一員である。251勝、3093三振の成績は先発投手の投球回が減少傾向にある現代で、一際輝く。通算投球回数は、1989年以降にデビューした全選手の中で最多であり、通算250勝・3000三振を達成した左腕投手は、サバシア氏を含めてわずか3人しか存在しない。

スピーチの中でサバシア氏は、現代の黒人少年たちにも野球界におけるロールモデルが必要だと訴えた。だからこそ、サバシア氏はコミッショナーのロブ・マンフレッド氏の特別補佐やMLBプレイヤーアライアンスの活動などを通じて、今も野球界に深く関わっている。

「僕がブラック・エーセスの最後の一人になりたくはないし、殿堂入りスピーチをする最後の黒人投手にもなりたくない」

「ビリー・ザ・キッド」の異名を持つビリー・ワグナー氏は、数多くの試合を締め括ってきた。最終回での強さを発揮し、ラストチャンスとなる10回目の投票で殿堂入りを果たした。

ワグナー氏は殿堂入りした9人目のリリーフ投手であり、左投げの救援投手としては史上初である。しかも、ワグナー氏の場合はさらに特異だ。なぜならもともと右利きであり、少年時代に右腕を骨折したことをきっかけに、左投げを独学で身につけたからである。身長5フィート10インチ(約178cm)と小柄な彼は、バージニア州の貧困地域で育ち、大学の3部に相当する、NCAAのディビジョン3でプレー。MLBでは100マイル(約161キロ)の速球と鋭いスライダーで打者を圧倒した。

しかし、この日は先発としてスピーチを担当。「自分の境遇に縛られるな」と教えてくれた両親への感謝や、妻サラさんの「強さ、優雅さ、そして愛」に対する感謝を述べた。だが、最も強く伝えたかったのは、かつての自分のような選手たちへのメッセージであった。

「私は身体が大きかったわけではない。左利きでもなかった。ここに来るべき人間ではなかった。でも、忍耐力とは単なる性格ではなく、偉大さへの道なのです」

被打率.187、奪三振率33.2%の記録は、通算900投球回以上の投手としてはいずれも史上最高である。アストロズ、フィリーズ、メッツ、レッドソックス、ブレーブスの5球団で計16シーズンを過ごし、オールスターに7度選出。通算903イニングで1196三振、422セーブを記録した。アストロズでの225セーブは球団記録であり、殿堂プレートにはアストロズのキャップが刻まれることとなった。

「今日、ここに立っていることで、私の野球人生は一つの円を描いたように感じています」と締めくくった。

父にそっくりの容姿を持つデーブ・パーカー2世は、殿堂入りセレモニーで亡き父「ポップス」の代わりにスピーチを務めた。父パーカーは、式典のわずか29日前にパーキンソン病による合併症でこの世を去ったが、その前に自身のスピーチを綴っており、その中にはユーモアあふれる詩も含まれていた。とりわけ印象的な一節がこれである:

I’m in the Hall now(今や俺は殿堂入り)

You can’t take that away(それは誰にも奪えない)

The statue better look nice(銅像はちゃんと作れよ)

You know I’ve got a pretty face(俺の顔はイケてるからな)

身体能力に優れ、派手なスタイルで知られたパーカー氏は、長く素晴らしいキャリアを誇ったが、中でも1979年のパイレーツでのワールドシリーズ優勝では、チームの象徴として活躍。殿堂プレートにはその時のパイレーツのロゴが刻まれている。

「デーブ・パーカーはブコ(パイレーツの愛称)である。伝説的な偉業をブコとして成し遂げ、ピッツバーグを何よりも大切にしていた」

「葉が茶色に変わる頃には、俺が首位打者になってるさ」と語ったパーカー氏は、35年以上連れ添った妻ケリーさんに向けても愛の言葉を残していた。「葉が茶色に変わったとき、彼女は俺のそばにいようと全力を尽くしてくれた」と。

パーカー氏のパーキンソン病との闘いはデーブ・パーカー39財団を通じて今も続いている。「まだ道半ばだ。でも、いつか必ずたどり着く」と息子は語った。

そしてこの記念すべくも、ほろ苦い一日に、パーカー氏の詩はこう締めくくられていた:

To my friends, families, I love you all(友よ、家族よ、みんな愛してる)

Thanks for sticking by my side(ずっとそばにいてくれてありがとう)

I told you Cooperstown(クーパーズタウンが)

Would be my last ride(俺の最後の旅路になると誓っただろ)

投高打低の時代において圧倒的な打撃力を誇ったディック・アレン氏は、2020年に78歳でこの世を去った。亡き夫の代理としてこの栄誉を受け取ったウィラ・アレンさんは、参列者に向けてアレン氏が残したのは、351本塁打や1119打点の数字だけではないと語った。

「彼の人生は信念と情熱、そして決意にあふれていた」

ウィラさんは1971年の出来事を語った。ドジャースタジアムでの試合後、16歳のファンの少年がサインを求めた際、アレン氏は「坊や、サインよりも握手をしよう」と言ったという。

「彼らはその場に2時間も立ち続けたのです。夫は急ぐことなく、追い払うこともなく、そこにいて、話を聞き、分かち合ったのです。その夜から友情が始まりました」

アレン氏が「ベイビーブラザー」と呼んだその少年は、今では70歳の男性となり、この日も会場に姿を見せていた。

ウィラさんによれば、アレン氏は調理スタッフやクラブハウスの職員、売店スタッフ、清掃員など球場を支える「裏方」を非常に大切にしていたという。

「どこかに出向く前には、必ず彼ら全員に挨拶をしないと気が済まなかったのです」とウィラさんは語った。

アレン氏は1972年にホワイトソックスでMVPを受賞したが、殿堂入りを果たしたのはフィリーズの一員として。1964年に新人王を獲得した球団との関係は深く、通常、永久欠番は殿堂入り選手のみを対象とするが、フィリーズはアレン氏が亡くなる4カ月前の2020年に特例として背番号15を永久欠番として称えた。

「フィラデルフィアでの日々は、夫にとっても家族にとってもすべてでした。彼が生きているうちにその功績が称えられたことは、一生忘れられない瞬間です」

アレン氏は自身の殿堂入りを生きて見ることはできなかったが、ウィラさんの愛に満ちた言葉と追憶は、聴衆にアレン氏の存在を強く感じさせるものであった。

「彼を信じてくださってありがとう。そして、ようやく彼を『家』に迎え入れてくださってありがとう」