「日本では、行きたいと思った場所のどこへ行っても、ほかのスカウトに出くわすことはないと分かっていた」
マリナーズで長年、環太平洋担当スカウトを務め、イチロー獲得に尽力したテッド・ハイド氏はMLB.comに語った。
「本塁後方の客席でスピードガンを構えている人の中に日本人ではない人物がいれば、すごく目立った」
ドジャースのアジア部門で1990年代末から2000年代初頭にかけてアシスタントを務め、現在はチーム遠征部門の上級ディレクターを務めるスコット・アカサキ氏はそう話した。
メジャー経験者に限った話でもない。ヤクルト・村上宗隆(25)や巨人・岡本和真(29)が今オフにポスティングされる見込み、というニュースは、ストーブリーグが本格化する数週間前から即座に大きな話題になった。
MLBの関心がアジアにほとんど向いていなかった時期に、2人のスカウトが台頭したのは幸運だった。マリナーズが日本資本のオーナーシップに移行すると、ハイド氏は新たな役割に就き、「日本に着いたその日から、ほぼ毎日のようにレポートでリーグを分析していた」と述べている。
アカサキ氏の場合は、さらに思い切った賭けだった。メジャー球団で職を得る前、大学の最終学年の時期に、日本野球の独自研究を立ち上げた。
「もう一度、日本に戻って日本野球を学び、日本語も上達させれば、東洋と西洋をつなぐ存在になれるかもしれないと思ったんです」とアカサキは語った。
「いずれ日本のオールスター級の選手たちがアメリカに来たいと思うようになるのは時間の問題だと思っていました。その独自研究をきっかけに、ドジャースのアジア業務部門で働くチャンスをつかむことができました」
一部の人は、野茂英雄がドジャースへ移籍した出来事を、同球団と日本野球の現在のつながりの始まりと見るかもしれない。だが、その関係は実際には何十年も前、アキヒロ(アイク)イクハラの先見性によって始まっている。
「ピーター・オマリーは約60年前にアイク・イクハラを採用した」
2001〜04年にドジャースGMを務めたダン・エバンス氏は語った。
「彼はドジャースと日本をつなぐ連絡役になった。オマリーは、アイクが将来を見据えたビジョンを持つだけでなく、環太平洋地域における野球の親善大使になれると見ていた。アイク・イクハラの役割は、野茂の前に日本で、朴賛浩(パク・チャンホ)の前に韓国で認知を高め、人脈を本格的に築くことだった」
エバンス氏は現在、全米野球研究協会(SABR)の理事を務めており、環太平洋地域との深いつながりを持つ。ドジャース時代に石井一久の契約と野茂英雄のドジャース復帰を担当し、台湾人初のMLB契約選手3人の契約にも関わった。その後、ハイド氏とともにマリナーズで働き、川上憲伸がブレーブスと契約した際には代理人を務め、のちにブルージェイズで環太平洋の業務を統括した。
当時の野球界がいかに閉じた世界だったか、そして日本だけでなくアジア全体で存在感を築くことがいかに重要だったかを、エバンス氏は身をもって知っている。
「私のビジョンはボブ・デイリーとボブ・グラツィアーノ(いずれも当時ドジャース幹部)の支持を得て『なぜフリーエージェント市場とドラフトだけに依存しなければならないのか? 世界中で野球を生み出している地域すべてに目を向け、もう一度積極的に動こう』というものだった。ドジャースはジャッキー・ロビンソンのチームであり、野茂英雄のチームでもあるのだから」
パドレスで現在環太平洋業務部長を務めるエイシー・コーロギ氏が率いたスタッフのおかげで、ドジャースは体制を整えた。日本はアカサキ氏、韓国はカーティス・チョン氏、台湾と中国はビンセント・ラウ氏が担当した。
「毎日、出社すると前夜の日本で行われた全試合のレポートが机に置かれていた」とエバンス氏は語る。
「選手情報を把握しており、映像があれば確認した。日本野球への理解が深まった。選手を把握し、誰が調子が良く、誰が不調かを把握していた」
当時、継続的にアジアに選手調査のために人員を配置していた球団は、ドジャース、マリナーズ、せいぜいレッドソックスやヤンキースくらいだったが、ドジャースには常勤スタッフが4人いた。
「2000年代初頭には、その兆しが見え始めていた」とハイド氏。
「ただ、ベテランスカウトにとっては、現地への派遣がご褒美旅行のように扱われる面もあった」
エバンス氏は、重要なのは選手のスカウティングだけではなく、競技と関わる人々への敬意を示すことだと指摘する。イクハラ氏が没後に日本野球殿堂入りした式典にも出席した。韓国や日本のスカウトがロサンゼルスを訪れた際、ドジャースはメジャー球団の代表者と同様にアジア球団のスカウトたちをもてなした。
「彼らを仲間として扱った。メジャー球団は30ではなく(アジアを含めて)50あると考えた」とエバンス氏。
「だから丁重にもてなした。文書は日英のバイリンガルにした。彼らの慣習も把握していた。いつも彼らの母語で紹介された」
ドジャースが石井一久と契約したのは2002年のシーズン前だったが、発表はロサンゼルスでは行わなかった。首脳陣が日本に赴き、現地で会見を開いた。
「理由は、彼が日本で最上位の投手の1人だったからだ」とエバンス氏。
「彼はエリート級だった。敬意を示し、同時に私たちの存在感を育て、率直に言えばブランドを再確立したかった。だから発表のために日本へ行った。記者会見も日本のメディアに配慮して多数行った。敬意の問題だったから、そうして本当に良かったと思っている」と振り返る。
ドジャースには立地や資金力という優位性があるかもしれないが、エバンス氏は、より人間的な要素こそが決定的に重要だと主張する。
「この競技はつながりがすべてだ」とエバンス氏。
「8〜9カ月の間、1日あたり10〜14時間を球場で一緒に過ごす。野球は世界的な競技だ。もはや北米だけのものではない。25カ国以上でプレーされている。ワールドベースボールクラシックがその証拠。重要なのはお金ではない。つながりを築き、維持し、育てることだ。つながりはお金で買えない」
「山本由伸や大谷翔平、佐々木朗希が、ドジャースを選んだ理由の一つとして歴史を挙げるのを耳にする」とアカサキ氏は語る。
「日本から近いことや当地の(日系)コミュニティがあることも助けになるが、われわれには独自の受け入れ体制がある。日本語を話すトレーナーがいて、フロントにも日本語対応のスタッフがいる。私はバイリンガルだし、(大谷の通訳などを務める)ウィル・アイアトンは前田健太の通訳だった。前田はずいぶん前の在籍だが、彼(アイアトン氏)は今もサポートスタッフにいる。ドジャースのクラブハウスに日本人選手が入っても、自然に馴染めるようになっている」
ドジャース、マリナーズ、ヤンキース、レッドソックスによる初期の日本選手の獲得は、アメリカ国内だけでなく世界中に大きな影響を与えた。日本のファンにとっては、メジャーリーグの試合をテレビで継続的に見られるようになり、いつかそのフィールドに立つという夢が現実味を帯びた。
「日本の若者、大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希、みんなは、マリナーズの試合を見て育った。マリナーズの試合がすべて生中継されていたからだ」とハイド氏。
「メジャーリーグを身近に見られる環境で育ったので、日本のプロ野球に行きたいばかりではなく、ドジャース、マリナーズ、ヤンキースを目指すようになった」
これは日本で育つ選手たちに希望を与えただけでなく、まだ自分たちに似た人間がアメリカのスポーツで主役になる姿を見られなかったアジア系アメリカ人の子どもたちにも夢をもたらした。
「当時、アジア系アメリカ人のアスリートやロールモデル(理想像)は多くなかった」とアカサキ氏。
「野茂英雄や朴賛浩は、タイガー・ウッズ、マイケル・チャン(テニス)、姚明(ヤオ・ミン=NBA)のような先駆者だった。テレビをつけて『あ、この人は自分と同じルーツだ』と思える存在は、ほとんどいなかった」
今につながる土台づくりに関わり、大谷が所属する球団で働いているとはいえ、アカサキ氏にもこの未来は想像できなかった。
「うちの息子たちはテレビをつければ、野球で最高の選手を見られるし、その選手は自分たちと似ている」とアカサキ氏は日本選手の活躍を語る。
「この仕事を始めた頃には思いもしなかったことだ。誰もが人生のどこかで移民であったり、よそ者のように感じたりする瞬間があるかもしれない。けれど、山本や朗希や翔平がいることは、私にとって大きな誇りであり、子どもたちに『何だってできる』と示せることでもある」
