「不可能」と言われた快挙――野茂英雄、クアーズフィールドでのノーヒットノーランから30年

September 18th, 2026

野茂英雄(当時28歳)といえば、独特のワインドアップが広く知られている。体を大きくひねって回転する動きから「トルネード投法」と呼ばれ、強烈な回転力を生かした速球とフォークの組み合わせで打者を翻弄した。

しかし30年前、ロッキー山脈を望む寒く雨の降る夜、日本から渡った右腕はセットポジションから投げる方がしっくりきていた。

その判断が歴史的快挙につながった。

1996年9月17日、クアーズフィールドで行われたロッキーズ戦。ドジャース先発の野茂は、雨の影響で試合開始が2時間遅れた中、野球史上でも最も実現困難だったと評されるノーヒットノーランを達成した。

ドジャースの伝説的実況アナウンサー、ビン・スカリー氏(当時68歳)も、メジャー史上屈指の打者有利な球場でのノーヒットノーランは「不可能」と考えられていたと伝えた。それから30年、クアーズフィールドでは延べ約240試合が行われたが、野茂に続く達成者は現れていない。

野茂はいかにして成し遂げたのか。異例の気象条件に加え、打者が捉えられないほど切れ味鋭い決め球など、複数の要因が重なった。

その土台には、何事にも動じない野茂の精神力があった。

【大きな注目の中でも揺るがない冷静さ】

打者天国とされるクアーズフィールドで歴史的快挙に迫ったあの夜も、野茂は周囲の重圧に動じなかった。その冷静さは、メジャー初登板までさかのぼる。

野茂はプロ入りから最初の5年間を日本プロ野球の近鉄バファローズでプレーした後、米国へ渡った。日本では一大ニュースとして連日大きく報じられ、メジャーのファンからも強い関心を集めた。

しかし、ロサンゼルスをはじめ野球界を席巻する「ノモマニア」が起きる前、独特のトルネード投法を操る当時26歳は、メジャー初登板で1イニングを終えることさえ危ぶまれる状況に直面していた。

1995年5月2日、キャンドルスティック・パークで行われたジャイアンツ戦。穏やかな日差しが降り注ぐ中、野茂は立ち上がりからピンチを招いた。一回2死を奪った後に3者連続四球で満塁とし、当時ドジャースの投手コーチだったデーブ・ウォレス(当時47歳)が通訳を伴ってマウンドへ向かった。

このマウンドでのやり取りを通じ、ウォレス投手コーチとドジャースは、野茂が本物のメジャーリーガーだと実感した。重圧の中でも揺るがない冷静さが際立っていたからだ。

野茂はその数分前、日本生まれの選手として30年ぶりにメジャーの試合へ出場。球場には数百人規模の日本メディアが集まり、日米両国から一挙手一投足に視線が注がれていた。それでもウォレス投手コーチはためらわなかった。

「本当にとっさでした。マウンドへ行って、彼にこう聞いたんです。『¿Cómo está?(スペイン語で調子はどうだ?)』」

捕手マイク・ピアザ(当時26歳)は耳を疑った。

「デーブ、彼は日本人だよ。スペイン語じゃない」

それでも野茂には意図が伝わった。うなずきながら、周囲の喧騒を遮断する強さを象徴するような一言を返した。

「大丈夫です」

実際、その通りだった。ロイス・クレイトン(当時25歳)との長い勝負を制して三振を奪い、満塁のピンチを切り抜けた。その後の4イニングでは走者をわずか2人に抑えた。相手打線にはナ・リーグMVPをすでに3度受賞していたバリー・ボンズ(当時30歳)、前年の本塁打王マット・ウィリアムズ(当時29歳)も名を連ねていた。

それから約16カ月後、野茂は再び一回にピンチを迎えた。舞台は寒く曇った夜のクアーズ・フィールドだった。ワインドアップから投げ始めた野茂は、2人目の打者クイントン・マクラッケン(当時27)に四球を与えた。マクラッケンは二盗を決め、外野フライで三塁まで進んだ。

それでも常に冷静な野茂は、代名詞のフォークでダンテ・ビシェット(当時32)から三振を奪い、無失点で切り抜けた。前年のナ・リーグMVP投票2位だったビシェットから、この夜3度奪った三振の最初だった。

まだ一回だった。ドジャースとパドレスが地区優勝を争うシーズン終盤の重要な一戦だったが、後にこの試合は、それをはるかに上回る歴史的な意味を持つことになる。

そして野茂特有の落ち着きは、この先に待つ快投を予感させた。野球史に残る1試合の投球を完遂する上でも、その冷静さが大きな支えとなった。

ビシェットは「最初の打席を終えた時点で、『今日はいい球を投げているな』という感じでした。でも、それだけでした」と振り返った。

しかし、その後どれほど大きな出来事になるか、ビシェットも野茂もウォレス投手コーチも、まだ誰も知る由もなかった。

【荒れ球も効果的な武器】

世界最高峰の打者たちへ挑むため太平洋を渡った野茂は、当時屈指の威力を誇った決め球を携えていた。フォーク、あるいはスプリットと呼ばれる球だ。複雑なワインドアップから放たれた球は速球のように見え、打者がスイングを始めた後に急激に落ちた。

独特の投球動作で打者に背中を向けるため、ボールは長く体の陰に隠れた。リリース直前まで球種を判別しづらく、フォークと速球で腕の振りもほぼ同じだった。

変則的なワインドアップ、同じ腕の振り、さらにピッチトンネリング(異なる球種を途中まで同じ軌道に見せる技術)が打者を惑わせた。体感速度にも大きな差が生まれ、78マイル(約126キロ)のフォークを見た後では、95マイル(約153キロ)の速球が実際以上に速く感じられた。

結果は多くの空振りだった。

ウォレス投手コーチは「野茂のフォークは非常に深く落ちる球でした。今の計測データで見ても、きっとすごい数字が出るでしょう。縦方向の変化量は相当なものだったと思います。ホームベース手前の芝と土の境目に差しかかっても、ストライクゾーンへ向かう速球に見える。あれを振らずに我慢するのは極めて難しいんです」と振り返った。

「しかも、フォークには2種類ありました。ストライクを取る球としても使い、さらに低く落として空振りも奪えました」

1983年から1999年までメジャーで投げたナックルボーラー、トム・キャンディオッティ(69)は、1995年から1997年まで野茂とチームメートだった。現在はダイヤモンドバックス戦のテレビ中継で解説を務める。投手として数多くの球を投げ、解説者としても数え切れないほどの投球を見てきた。

それでも、野茂ほど強烈なスプリットには出会っていないという。

「当時のロッキーズの打者たちは、あんなスプリットを経験したことがなかったでしょう。今もいいスプリットを投げる投手はいます。でも、野茂のスプリットとは違います。比べものになりません。本当にすごい球でした。信じられないほどでした」

圧倒的なフォークを持つ一方、野茂には四球も珍しくなかった。1996年の与四球率は9.1%だった。

9月17日の試合では、一回にマクラッケンへ四球を与えた後、二回先頭のアンドレス・ガララーガ(当時35歳)も歩かせた。それでも続くビニー・カスティーヤ(当時29歳)、スティーブ・デッカー(当時30歳)を連続三振に仕留め、ネイフィ・ペレス(当時23歳)をファウルゾーンへのフライに打ち取った。

野茂はこの試合でさらに2四球を与えた。それも野茂らしい投球の一部だった。制球の荒さは欠点というより武器として機能する場面も多く、ストライクゾーンから鋭く落ちる球で打者の空振りを誘った。

【セットポジション】

野茂の代名詞だった独特のワインドアップは、その投球を象徴する最大の特徴だった。しかし、この夜は雨でマウンドがぬかるみ、足元も悪かったため、メジャーではそれまで経験のない投球スタイルを選んだ。

キャンディオッティは、試合開始時の気温が約8度だった当時を振り返る。

「寒かったですよ。普通の雨ではなく、冷たい雨でした。野茂が何度か外へ出て、また戻ってきたのを覚えています。三回の前、マウンドからワインドアップで何球か投げていましたが、しっくりきていないようでした」

「それで、すぐに(走者がいなくても)セットポジションへ切り替えました。その後は試合終了までずっとセットから投げました」

急きょ投球動作を変更した野茂は、三回を三者凡退に抑えた。ベンチへ戻ると、ウォレス投手コーチは本人が投げやすい方法を続けるよう伝えた。

「セットポジションの方がかなり投げやすいと言ってきました。だから私は『それなら、そのままいこう』と答えました。ああいう投手には本人の感覚を尊重し、ある程度任せる必要があります。特に、あれだけ実績を残していた投手ですから。『よし、そのままいけ』と伝えました」

天候は野茂の投球スタイルを変えただけでなく、この夜は打者にとって不利に働き、打者有利のクアーズ・フィールドでも野茂の味方となった。

直前まで続いた雷雨で湿度が高まり、ボールが水分を吸収して反発力がやや低下した。標高が高く空気の薄いデンバーでも、その影響はあった。

ウォレス投手コーチは「天候にはかなり助けられました。湿度も、試合開始の遅れもそうです。雨で濡れて寒かった。打者も間違いなく快適ではなかったでしょう。乾燥して気温が約26~27度あれば、同じような効果は得られません」と振り返った。

もっとも、ドジャース打線は14安打9得点を記録している。

いずれにしても、セットポジションへの変更は野茂の快投を支えた大きな要因だった。キャンディオッティは野茂とよく昼食をともにし、「本当に面白い人で、いつも笑わせてもらった」と振り返る。後に、なぜ普段からセットポジションで投げないのか尋ねたという。

野茂の答えはこうだった。

「ワインドアップで稼ぎすぎてるからね」

【野球史上屈指の強打を誇った本拠地打線】

1996年のロッキーズは221本塁打を放ち、ナ・リーグ記録に並んだ。そのうち149本が本拠地での一発。前年のロッキーズが記録したシーズン本拠地最多134本を大幅に更新した。

本拠地では驚異のチーム打率.343。ナ・リーグ球団として40年以上ぶりにシーズン900得点を突破し、計961得点を記録した。クアーズフィールドだけで658得点を挙げ、メジャー史上最多となるシーズン本拠地得点を樹立した。

この年、クアーズフィールドで登板した投手の防御率は7.06だった。1球場における単一シーズンの防御率として、メジャー史上最も高い数字だった。

現在のクアーズフィールドでは、ボールを一定の湿度で保管する「ヒュミドール」が使用されている。当時はまだ導入されていなかった。さらに「ブレイク・ストリート・ボンバーズ」と呼ばれた強力打線の全盛期でもあった。ビシェット、カスティーヤ、ガララーガに加え、エリス・バークス(当時32歳)、ラリー・ウォーカー(当時29歳)ら強打者5人が並び、相手投手を苦しめた。ウォーカーは負傷離脱中で、野茂が歴史を作った夜のスタメンには入っていなかった。

野茂が対峙した相手は、まさに強力打線だった。しかも、クアーズフィールドではすでに苦い経験もあった。

同年6月30日の登板では、5回9失点。メジャー史上でも屈指の乱打戦とされる試合だった。前年にクアーズフィールドで初登板した際も、4回2/3で7失点。サンフランシスコでのメジャーデビューからわずか5日後の登板だった。

それでも野茂は、過去の悪い登板を引きずらなかった。

ウォレス投手コーチは「彼には嫌なことをすぐに忘れられる独特の強さがありました。今日は新しい一日だ、と切り替えられるんです」と振り返った。

そして、この日はまさに新たな一日だった。四回裏、先頭のバークスに四球を与えると、「ブレイク・ストリート・ボンバーズ」の強打者が続いた。ビシェット、ガララーガ、カスティーヤの順だった。

野茂はまずビシェットを三振に仕留めた。続いて、まさに紙一重のプレーが生まれた。

ガララーガが遊撃と三塁の間を抜けそうな鋭いゴロを放ったが、遊撃手グレッグ・ギャグニー(当時34歳)が滑り込みながら逆シングルで捕球。片膝をついたまま二塁へ送球し、バークスを封殺した。

ノーヒットはひとまず続いた。だが、次の打者で途切れかけた。

続くカスティーヤはカウント3-0からの速球を捉え、右翼深くへ大飛球を放った。

カスティーヤは打った感触について「打った瞬間に本塁打と分かる当たりではありませんでした。でも、かなりいい感触でした」と振り返った。

打球は右翼手ラウル・モンデシー(当時25歳)をフェンス際まで後退させたが、フェンス手前で捕球した。

五回は三者凡退。スティーブ・デッカーを右翼フライ、ネイフィ・ペレスを三塁へのライナーに打ち取り、最後は相手先発ビル・スウィフト(当時34歳)から三振を奪った。

野茂は打者天国のクアーズフィールドで、五回まで無安打投球を続けた。十分に印象的な内容だったが、まだ快挙を意識する段階ではなかった。まして相手は、メジャー屈指の強力打線だった。

【トルネードの猛威】

野茂のワインドアップは、体をコルク栓抜きのように大きくひねる独特の動きから「トルネード」と呼ばれ、野茂自身の代名詞にもなった。

両腕を真上へ伸ばし、頭上高くで両手を合わせる。そこから右脚を軸に上半身を大きくひねり、ユニホーム背面の名前と背番号が打者から完全に見えるほど体を回転させる。「トルネード」が勢力を増していく瞬間だった。

続いてグラブからボールを抜き、投球する右腕を後方へ伸ばしながら、後ろ足付近のマウンドへ向かって下げる。この段階で「トルネード」は最も激しい動きに達する。

最後に体をほどくように本塁方向へ向き直り、ボールをリリース。その瞬間に再び一気に力が加わった。

一方、野茂の内面はむしろハリケーンの「目」に近かった。周囲では巨大なエネルギーが渦巻いていても、その中心だけは穏やかで、澄み、静けさを保っている。

そうした冷静さは野茂の成功を支える重要な要素であり、1996年9月17日のクアーズフィールドでは特に大きな意味を持った。

日本プロ野球からメジャーへ挑んだ野茂の経験をある程度理解できる人物は、当時ほかに1人しかいなかった。野茂より前にメジャーでプレーした唯一の日本生まれの選手、村上雅則氏(当時52歳)だ。野茂がこの夜クアーズフィールドで挑もうとしていた偉業を、特別な思いで見つめる存在でもあった。

村上氏は1964年と1965年にジャイアンツで登板し、サンフランシスコで通算89回1/3を投げ、防御率3.43を記録した。

村上氏は通訳を介し、野茂について「物静かで控えめな人ですが、内には非常に強い意志を持っています。性格や人柄、そしてもちろん能力。その組み合わせが成功につながったと思います」と評した。

ウォレス投手コーチはこの時点ですでに野茂を十分に理解しており、想像もつかない快挙へ近づいても平常心を保てると分かっていた。

「野球に対する物事の捉え方や直感は、本当に驚異的でした」とウォレス投手コーチは振り返った。

六回、ロッキーズ打線は先頭打者から3巡目に入った。野茂は先頭のエリック・ヤング(当時29歳)に四球を与えたが、直後にけん制でアウト。続くマクラッケンを投ゴロに打ち取り、2死とした。

ここで打席に入ったバークスは、直前の1週間で打率.643、2本塁打を記録し、ナ・リーグ週間最優秀選手に選ばれていた。この年はキャリア最高のシーズンを送り、40本塁打、32盗塁を記録。長打率でリーグトップに立ち、ナ・リーグMVP投票でも3位に入った。

バークスはカウント2-1からの速球を鋭く投手方向へはじき返した。打球は大きく跳ね、野茂の頭上を越えて中前へ抜けそうになった。しかし、野茂が右手を伸ばして空中でつかみ、一塁へ送球。六回も無安打で終えた。

七回、野茂はロッキーズ打線の中軸と対した。先頭はビシェット。この試合最後の打席を振り返り、特に強烈な印象を受けた球として野茂の速球を挙げた。

「3打席目は、もう打てる気がしませんでした。普通なら打線が3巡目に入れば、相手投手をある程度つかめます。誰が相手でも同じです。でも、ノーヒットノーランを最後までやり遂げるような投手には、何か特別なスイッチが入るんだと思います」

「あの速球には完全に圧倒されました」

中継席から試合を伝えていたスカリー氏にも、野茂の速球の威力がはっきり見えていた。

ビシェットが空振りして2ストライクとなると、スカリー氏は「いやあ、素晴らしい速球です。今の1球は思い切り腕を振りましたね」と実況した。続く1球も速球だった。

「小細工はありません。真ん中へ速球を投げ込み、完全に圧倒しました」

続くガララーガは右翼へ打球を放ったが、モンデシーの正面で2死。カスティーヤも中飛に倒れ、野茂は七回まで無安打を続けた。

八回は代打テリー・ジョーンズ(当時25)、ペレス、代打の切り札ジョン・バンダーウォール(当時30)と対戦した。バンダーウォールは前年、代打安打28本のメジャー記録を樹立していた。ジョーンズを見逃し三振、ペレスを二ゴロ、バンダーウォールを三塁へのポップフライに仕留めた。

野茂はノーヒットノーランまであと3アウトに迫った。

歴史的快挙が目前となっても、野茂の様子は変わらなかった。ウォレス投手コーチは「いつも通り冷静でした。『誰も話しかけるな』というタイプでもありませんでした」と回想した。

「ただ、『これが自分の仕事だ。これが勝負の世界だ。すべてを懸けてマウンドに上がり、その結果を受け入れる』。彼はずっと、そういう姿勢でした」

【不可能を実現】

現役引退後、日本野球のパイオニアだった村上雅則氏はNHKの野球解説者となった。

1995年5月、キャンドルスティック・パークで行われた野茂のメジャー初登板にも立ち会った。当日は「村上雅則デー」でもあった。そして、このデンバーの夜は実況席から歴史的瞬間を見守っていた。野球史だけでなく、日本スポーツ史に残る出来事が目の前で進んでいた。

そして、とにかく寒かった。

村上氏は「寒さで舌がしびれたのを覚えています。中継でうまく話せなくなるほどでした」と回想した。

村上氏と実況を担当した福原健一アナウンサー(当時39歳)が九回裏を迎える準備を進める中、ロッキーズは何としてもノーヒットノーランを阻止しようとしていた。本拠地では日頃から相手投手を圧倒してきた強力打線だけに、無安打で終わるわけにはいかなかった。

打順は先頭へ戻り、野茂との対戦は4巡目。ロッキーズの打者たちには意地もあった。打者天国のクアーズフィールドでノーヒットノーランを許す意味を、彼ら自身がよく理解していた。

バークスは「みんな意識していましたし、話もしていました。『本拠地でこの男にノーヒットノーランをやらせるわけにはいかない。そんなことは絶対に起こさせない』と話していました」と振り返った。

野茂が快挙まであと3アウトに迫り、九回裏の先頭打者ヤングが打席へ入った。カウント1-1から二ゴロ。続くマクラッケンも初球を打って二ゴロに倒れた。

ついに、その瞬間が目前に迫った。クアーズ・フィールド史上初のノーヒットノーランまであと1人。立ちはだかる打者は、メジャー最強の本拠地打線で中心を担っていたバークスだった。

ドジャース戦を中継するテレビ画面の右上には、歴史的瞬間が迫っていることを示すように「KTLA-5(中継局)」のロゴが映し出されていた。スカリー氏は、彼らしい言葉でその場面を伝えた。

そしてクアーズフィールドの観客が期待に胸を膨らませて総立ちになると、スカリー氏はしばらく言葉を止め、その瞬間そのものにすべてを委ねた。

「さあ、ここからは映像がすべてを伝えてくれるでしょう。私は黙ります」

続いてスカリー氏はNHKの日本語中継を紹介した。KTLA-5の視聴者に加え、ESPNで生中継を見ていた全米のファンにも、村上氏と福原アナウンサーによる日本語の実況が流れた。歴史的瞬間が迫る様子を、日本語で伝える声だった。

30年前、ジャイアンツでプレーするため初めて米国へ渡った村上氏にとって、想像すらできなかった瞬間だった。日本選手のメジャー挑戦へ最初の道を切り開いた自身が、いつの日か日本人投手によるノーヒットノーラン達成の瞬間を実況するとは、当時知る由もなかった。

その歴史的背景を考えれば、村上氏が受けた感慨はひときわ大きかった。

「私が米国へ渡った時期は、第2次世界大戦の終結からまだ20年もたっていませんでした。そうした歴史的背景があり、戦争の傷もまだ残っていた時代です。人種差別もかなりありました」

「日本人だけが対象ではありません。多くの有色人種も同じでした。チームメートだったウィリー・メイズも、住む家を探すのに苦労したと聞いています。そういう時代でした。私の時代から30年が過ぎ、社会も変わりました」

そして今、メジャーの球場では数万人のファンが総立ちとなり、日本人投手へ大声援を送っていた。野茂は、それまで誰も成し遂げず、その後も誰一人達成していないクアーズフィールドでのノーヒットノーランまであと1人に迫っていた。

村上氏はその光景を、日本で見守る人々へ伝えていた。

「その瞬間は、本当にうれしかったです」

野茂がバークスへ投じた初球は外角へ外れてボール。2球目をファウルにし、続く速球は低めに外れた。そして4球目、フォークで空振りを奪い、カウント2-2となった。

あと1ストライクで試合終了。ロッキーズに残された最後の打者となっても、バークスは動じていなかった。

「この年は本当に調子が良くて、誰にも負けないくらい自信を持っていました。最後のアウトになるなんて考えていませんでした。ヒットを打って、次の打者につなぐことだけを考えていました」

「でも、あのスプリットに完全にやられました」

野茂の110球目は、この試合で投じた中でも最高のスプリットだったかもしれない。そして、野茂の野球人生で最も有名な1球となった。

バークスのバットは鋭く落ちる球の上を通過した。空振り三振。

スカリー氏は声を張り上げた。

「野茂英雄が、不可能だと言われていたことを成し遂げました。標高1マイル(約1600メートル)のこの街で、デンバーのクアーズフィールドで! ロッキーズを完封しただけではありません。ノーヒットノーランです。そして何より、日本でもこの歴史的瞬間を見ることができて本当によかった!」

The pitch chart from Hideo Nomo's no-hitter at Coors Field on Sept. 17, 1996. Nomo gave it to his pitching coach, Dave Wallace.

【唯一無二】

それから5年後、野茂はレッドソックスの一員として、カムデンヤーズでオリオールズを相手に自身2度目のノーヒットノーランを達成した。コロラドでの快挙と同様、現在も同球場史上唯一のノーヒットノーランとして残っている。

しかし、クアーズフィールドでの快挙は、気象条件や対戦した強力打線まで考えれば、今なお唯一無二と言える。

今後、クアーズフィールドで再びノーヒットノーランは生まれるだろうか。いつか達成される可能性は十分にある。それでも、簡単には想像できないほど難しい偉業だ。

1996年9月のあの夜、マウンド付近でチームメートからもみくちゃにされた野茂は、普段は感情を表に出さない中、コロラドの冷たい空気の中で右拳を小さく突き上げた。

すべての仕事を終えた。

そして、最高の結果を残した。