トミー・ジョン氏が死去、多くの選手を救ってきた手術の先駆者の人生を振り返る

August 16th, 2026

30年にわたってメジャーの先発ローテーションを支え、通算288勝を挙げたトミー・ジョン氏(以下敬称略)が死去した。83歳だった。その名は、数え切れないほど多くの投手のキャリアを救ってきた手術の名称としても広く知られている。

オールスターに4度選出された左腕は、野球殿堂入りを果たしていない近代野球以降の投手では2番目に多い勝利数を記録している。1963年にデビューするとメジャーのマウンドに26シーズン立ち続け、46歳だった1989年にヤンキースで最後の一球を投げた。

1974年7月17日、ドジャースで登板していたジョンは、速球を投じた際、左肘に本人が「衝突」と表現する感覚を覚えた。後に、投手生命を脅かす左肘尺側側副靱帯の完全断裂だったことが判明した。

「投球に力を加えるまさにその瞬間、腕を後ろに引いて曲げたところで、何かが起きた」とジョンは1978年に『スポーツ・イラストレイテッド』に語っていた。

「腕だけをどこかに置き忘れたような感覚だった。体は前へ進み続けているのに、左腕だけが体から離れ、右翼へ飛んでいったようだった。……マウンドを降りると、ダグアウトから出てきたウォルター・オルストン監督と会った。『誰かを準備させた方がいい。腕を痛めた』と伝えた」

2カ月にわたって患部を休ませ、冷却治療を試みても回復しなかったため、ドジャースのチームドクターだったフランク・ジョーブ医師は1974年9月25日、当時としては画期的な4時間に及ぶ手術を行った。ジョーブ医師はジョンの右前腕から腱を採取。左腕の上腕骨と尺骨に穴を開け、固定器具を使って靱帯を留めた。

左手の指の感覚が失われたため、神経の損傷を修復する2度目の手術も必要になった。当時、ジョーブ医師が示したメジャー復帰の可能性は100分の1。それでもジョンはその賭けを受け入れた。手術を受けなければ、故郷のインディアナ州テレホートへ戻り、自動車を販売することになると考えたからだ。

「私は彼に『あなたは素晴らしい医師で、私はあなたを信じている。でも、その見立ては間違っている。私は必ず戻ってくる』と言った。腕は見事に治してもらった。ここからは自分次第だ。自分の体がどれほどの痛みに耐えられるか分かっているし、かなり耐えられる。どれくらい取り組めるかも分かっている。1日18時間かかるなら、そうする。私は必ず戻ってくる」とジョンは語った。

ジョンは1975年シーズンを全休したが、1976年に復帰。ドジャースで31試合に先発し、10勝10敗、防御率3.09を記録した。選手や記者からは「バイオニック・マン」と呼ばれるようになった。翌シーズンは31先発で20勝7敗、防御率2.78をマークし、ドジャースのリーグ優勝に貢献。ナ・リーグのサイ・ヤング賞投票では、フィリーズのスティーブ・カールトンに次ぐ2位に入った。

「調子のいい球がなくても打者を抑えることができた。腕は手術など受けていなかったかのようだった」とジョンは後に語った。

1978年にはナ・リーグのオールスターチームに選出されたが、ドジャースは同年のポストシーズンで、2年連続でヤンキースに敗れた。ジョンは1979年シーズンからヤンキースへ移籍。レッズとロイヤルズからはさらに高額な条件を提示されていたが、ヤンキースと3年総額140万ドル(約2億1000万円)で契約した。しかし1981年は古巣のロサンゼルスが頂点に立った。

「本日、トミー・ジョンの訃報に接し、深い悲しみを覚えている」とドジャースのスタン・カステン球団社長兼CEOは声明で述べた。

「トミーはメジャーでのキャリアを通じて傑出した投手だった。後に自身の名を冠することになる手術を最初に受けた、その勇気ある役割がどれほど大きかったかは、強調してもしきれない。彼がフィールドの内外で与えた影響は、あらゆる年代の野球選手に届いてきた。そして、これからも何世代にもわたって受け継がれていくだろう」

1981年、ジョンは私生活でも極めて困難な時期を過ごした。8月、2歳の息子トラビスが3階の窓から転落して入院。トラビスが19日間にわたって昏睡状態にある間、ジョンは息子に付き添い、本拠地で先発登板の順番が回ってきたときだけ病院を離れた。

1982年8月、ヤンキースは後日指名選手となる左腕デニス・ラスムセンとの交換で、ジョンをエンゼルスへトレードした。エンゼルスでは3シーズン半プレーし、1982年のア・リーグ優勝決定シリーズでは2試合に登板。1985年6月に自由契約となり、同年の残りをアスレチックスで過ごした。1986年にはヤンキースのスプリングトレーニングへ参加し、5月に契約を結んだ。

ジョンはメジャーでの最後の91試合をヤンキースの一員としてプレーし、1989年には開幕戦も任された。ナックルボーラーのフィル・ニークロが1988年に引退すると、ジョンはメジャー最年長の投手となった。

「ニューヨーク・ヤンキースは、トミー・ジョンの死を悼む。ピンストライプを着ていた時代、彼は先発ローテーションの屋台骨であり、長年にわたってヤンキースファンから愛された。驚異的な現役生活の長さと手術後の功績は、世界中の数え切れないほど多くのアスリートの運命とキャリアを変えた。一方で、それによって、ヤンキースで2年連続20勝を挙げたことを含む投手としての卓越性が目立たなくなった面もある」と球団は声明を発表。

「われわれはこの瞬間を借りて、彼が残した功績のすべてを振り返りたい。負けん気と技術、人あたりの良さ、優しく礼儀正しい人柄、そしてスポーツと医療の先駆者としての存在感。ヤンキースは、妻シェリル、娘タマラ、息子トミー三世とトラビスをはじめ、ご家族と友人の皆さまに心から哀悼の意を表する。息子テイラーのことも、われわれの心にとどめている」とその人柄を称え、締め括った。

ジョンはディーコン・マグワイアが持っていた26シーズン出場の記録に並んだ(同記録は後にノーラン・ライアンが28シーズンへ更新した)。ジョンは通算760試合(700で先発)に登板し、288勝231敗、防御率3.34、162完投、46完封で引退。通算勝利のうち164勝は、選手生命を救った1974年の手術後に挙げたものだった。

「この手術は大きな注目を集めているため、投手だけが受けるものだと思われている。しかし、トミーに手術を行ったとき、私は先駆者ではなかった。革命的なことをしたわけでもない。この手術はポリオ患者に対して行われていた。私はそれを新たな形で応用したにすぎない」とジョーブ医師は1989年に語った。

1943年5月22日にテレホートで生まれたジョンは、高校時代は野球とバスケットボールで活躍。1961年には首席で卒業したが、吃音の問題を理由に、学校側から卒業生総代としての答辞を読むことは認められなかった。バスケットボールでは複数の学校から勧誘を受けていた一方、カーブを武器にクリーブランドのスカウト、ジョニー・シュルテの目に留まり、18歳だった1961年に契約を結んだ。

ジョンは1963年9月6日のワシントン・セネターズ戦でメジャーデビュー。主にカーブと速球を組み合わせ、1966年にホワイトソックスの開幕投手へ指名されるまでは、主に救援で起用された。

ジョンはかつて、シカゴのエディ・スタンキー監督が、完投勝利でゴロを20本打たせた投手にハート・シャフナー・マルクスのスーツを無料で贈ると約束していたことが、自身の投球スタイルに影響したと振り返っている。

「当時は9イニングを投げ切って勝てるほど強いチームではなかったが、私は彼からスーツを3着もらった。ゴロはアウトになる必要もなかった。ゴロの安打でもよかった。監督は投手に、『ゴロが本塁打になることはない』と考えてほしかったんだ」とジョンは2017年、『ニューヨーク・タイムズ』に語った。

ジョンの現役最後の登板は1989年5月25日、ニューヨークで行われたヤンキース対エンゼルス戦だった。最後に対戦した打者である外野手デボン・ホワイトは、ジョンがメジャーデビューした時点で生後8カ月だった。

現役引退後は1990年代にツインズとヤンキースの試合中継を担当。2000年代初頭には、エクスポズとヤンキース傘下のマイナー球団で投手コーチを務め、再びダグアウトに戻った。2007年には、独立リーグのアトランティック・リーグに所属し、現在は消滅したブリッジポート・ブルーフィッシュで監督にも挑戦。2シーズン半で159勝176敗の成績を残した。

ジョンの晩年には悲劇もあった。2010年3月、末息子のテイラーが処方薬の過剰摂取に関連して28歳で亡くなった。これを受け、ジョンは自殺への意識向上と防止に取り組む「レッツ・ドゥ・イット財団」を設立。亡くなるまで、その活動に力を注ぎ続けた。