「メジャーリーグは我々には閉ざされているような気がした。(略)それは私が日本でプレーすることにした理由の一つでもある。」―平山智
左の列
(上段)アメリカ生まれの平山智と当時のニューヨーク・ヤンキースの監督ケーシー・ステンゲル
平山は1955年に広島東洋カープに入団し外野手として活躍した。日本を訪れていたニューヨーク・ヤンキースとプレーした際には、ニューヨーク・ヤンキースのエースであったホワイティー・フォードからヒットを打つことに成功。その後平山は広島東洋カープのスカウトとなり、アルフォンソ・ソリアーノ等の著名な選手と契約した。
(下段)ジョー・ディマジオはアメリカ生まれの日本人選手である銭村健一郎(一番左)と銭村の広島のチームメイト2人と会う機会があった。
ディマジオはマリリン・モンローとの新婚旅行で1954年に日本を訪れた。ディマジオに日本を訪れ、プロ野球チームにバッティングのアドバイスをすることを勧めたのはレフティ・オドールだった。訪日の際、ディマジオは通訳を連れていなかったため、銭村が代わりに通訳を行った。
真ん中の列
(上段)読売ジャイアンツのアメリカ本土ツアーの際に、プロ野球殿堂入り監督である水原茂とキャピー原田(右から2番目)と会う日系アメリカ人の野球界レジェンド銭村健一郎(中央)(1953年、カルフォルニア州フレスノ)
アメリカを訪れていた巨人軍の中には、後に日本の野球を革新し日本野球殿堂入りを果たすこととなる、ハワイ生まれの外野手である与那嶺要もいた。
(上から2番目)日本野球殿堂入りを果たした3人目の日系アメリカ人である与那嶺要は、読売ジャイアンツにて11シーズンプレーし、更にその後26年間監督を務めた。1チームに外国人選手は3人までという日本野球界のルールにより、1962年には中日ドラゴンズから引退し監督に転身することで、メジャーリーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーが入ることを可能にした。
(上から3番目)「マッシー」の愛称で知られている村上雅則は、MLBでプレーした初の日本人選手だった。1964年及び1965年にはサンフランシスコ・ジャイアンツのリリーフピッチャーとして登板した。村上のMLBへの参戦は、野球の国際化における第一歩となり、その後多くの日本人選手がメジャーリーグでプレーするための道を築いた。
(下段)日本のピッチングセンセーションであった野茂英雄は現在メジャーリーグで戦っている多くの日本人選手の扉を開いた。野茂はロサンゼルス・ドジャーズに在籍中の1995年に最優秀新人賞を受賞した。また、1997年にはクアーズ・フィールドでコロラド・ロッキーズを相手にノーヒッターを記録し、ボストン・レッドソックス在籍中の2001年にはボルチモア・オリオールズを相手に同様の記録をマークしたことにより、各リーグで無安打を記録した歴代投手5人の内の1人となった。
右の列
(上段左)監督のデーブ・ロバーツは変化していく日系アメリカ人コミュニティを象徴している。沖縄県那覇市で生まれたロバーツは、アフリカ系アメリカ人と日本人としての血を誇りに思っている。ロバーツは2004年及び2020年のワールドシリーズチャンピョンであり、2016年にはナショナルリーグ最優秀監督賞にも選ばれている。2020年には、ワールドシリーズを制した初のアジア系アメリカ人の監督となった。
(上段右)2009年にシアトル・マリナーズの監督に就任したドン・ワカマツはMLB史上初のアジア系アメリカ人として注目を集めた。ワカマツは日系アメリカ人4世である。彼の父親はオレゴン州との境付近の北カルフォルニアにあるトゥーリーレーク戦争移住センターで生まれた。
(中央左)第二次世界大戦後、日系アメリカ人が野球を通じた日米関係修復に努めたことがイチロー等21世紀のスターがアメリカに渡る基盤を作り、MLBという「国際的な娯楽」が生まれることに繋がった。
(中央右)日本とアメリカそれぞれの場所で日本人は1872年に始めて野球に触れた。その後150年を通して野球は日系アメリカ人や日本人に愛され、史上最高峰の選手である二刀流・大谷翔平の輩出にも繋がった。
(下段)「永住外国人」とは、人種や民族によりアメリカで生まれた、またはアメリカに帰化した市民が外国人とみなされるという人種差別的なステレオタイプである。野球という場においては、日系アメリカ人選手と日本人選手の違いを理解することでこのステレオタイプをなくすことができる。